- 参考文献 :
- 「江戸鼈甲」 発行 東京鼈甲組合連合会
「長崎のべっ甲」 著者 越中哲也
南方の海域やカリブ海、インド洋の海域に生息しているウミガメの一種である玳瑁(タイマイ)の半透明と黒褐色のまだらがある甲羅と爪、そして腹甲とを巧みに加工、細工し、各種の装飾用具として作られたものをべっ甲(鼈甲)細工と呼んでいます。
中国ではこの玳瑁細工の工芸品が6世紀末頃にはすでに作られ、8世紀の唐時代になると盛んに制作されるようになったので、唐の朝廷は玳瑁や珠玉などを組み合わせて各種の工芸品を作るのは贅沢品であるとして、しばしば禁令が下されています。このように玳瑁は古代より貴重品として取り扱われていました。
日本におけるべっ甲の歴史はかなり古く、飛鳥・奈良時代にさかのぼります。
飛鳥・奈良時代(西暦600年~)
聖徳太子が小野妹子を隋に遣わしタイマイをもたらしました。
- 604年、東大寺正倉院の宝物庫にみられる「玳瑁杖(たいまいのつえ)」「玳瑁如意(たいまいにょい)」「螺鈿紫檀五弦琵琶(らでんしたんのごげんびわ)」等が中国からもたらされたとされます。
平安・鎌倉時代(西暦903年~)
- 903年、菅原道真を祭る道明寺天満宮に「玳瑁装牙櫛(たいまいそうげのくし)」が国宝として所蔵されています。
- 1192年、鎌倉八幡宮宝物殿に矢たて、その他にタイマイを使った製品が宝物として現存しています。
江戸時代
中国で産み出された技法が16世紀にポルトガルに入り、ポルトガル人の来日により長崎に伝えられました。以降、長崎を中心にべっ甲細工の技術が発達していきました。
当時は、亀(玳瑁)は鶴とともに長寿のしるしとしてめでたい品とされ、かんざし、櫛、箸などが各地の大名に愛用されていましたが、高価なため元禄時代には「奢侈禁止令(江戸幕府が士農工商を問わずに発令した贅沢を禁じる法令及び命令)」により、庶民には手に入りにくい貴重なものでした。
しかし、ある藩主が婚礼に際し「是非ともタイマイ製品は必要である」とし、幕府に対して「玳瑁は唐より渡来した高価品であるが、わが日本内地の亀の甲で作る品は差し支えなきや」と苦肉の上申を行い、「鼈甲(すっぽんのこう)で作る品ならば一向に差し支えなし」と許可を得ました。以来玳瑁の名称は鼈甲(べっこう)と改称されたという説があります。
- 徳川家康(1542-1616年)の遺品とされる「目器」(鼻眼鏡)が久能山東照宮に現存、所蔵されています。
- 1665年、出島オランダ商館長が徳川家にべっ甲を献上しました。
- 1701年、オランダよりべっ甲の輸入が始まり、長崎にべっ甲業を始める者が出ました。
明治・大正時代
安政6年(1859年)に各国との間に開港条約が締結されると、長崎の港には従来のようなオランダ船ばかりでなく、アメリカ、イギリス、ロシアなどの商船、軍艦が絶え間なく出入りし、街中にも多くの外国人が自由に散策するようになりました。各国の人たちは多くの土産物を買い込むようになり、べっ甲職人達も従来のような国内向けのデザインべっ甲細工ではなく、外国人が好むべっ甲細工を制作することが必要となってきました。
統一した参考書もなく、すべてが個人の創意工夫にまかされていた時代に、製品に対する方向転換をすることは非常に困難なことでした。それを成すにはヨーロッパ人の生活様式や装飾品を調査し、それに応じたデザインを工夫しなければならなかったからです。
当時のべっ甲業者の人たちは一致してこの難問に立ち向かい、そしてこの問題を解決しました。そしてその技術は受け継がれ、各時代に合った装飾品、眼鏡、工芸品が造られています。
タイマイの背中の甲羅は成長に伴って瓦状に重なっていきます。つまりタイマイの甲は木の年齢のように、紙1枚くらいの層が重なり合い、甲の厚みを形成しています。この1枚の厚みは産地によりまちまちで、キューバ産、アフリカ産は厚く、フィリピン、インドネシア産は薄いというのが定説になっています。
これらの1枚1枚の層の中には、コア(水分を通す管)があり、何十枚という厚みの甲があっても共通のコアは決してありません。さらに、タイマイの甲には保温力があり、温めると自由に曲がるという特性があります。この特性はコアのためであることが科学的に証明されています。こうしたことから、タイマイの甲(べっ甲)は、現在までのところ人工では作りえない、複雑な構造であることが証明されています。
日本では、沖縄県の石垣島などでタイマイの増養殖の研究が進められています。